もう一枚

宮沢賢治と保阪嘉内の交流についてもうちょっと
同人誌『アザリア』の4人のメンバーのうち、賢治と保阪は特に仲が良く、手紙のやりとりも頻繁でした。
保阪は石川啄木にあこがれて盛岡中学に入った文学青年。(盛岡中学は石川啄木の出身校)
また演劇好きでもあり、自分で戯曲などつくっていたようです。
あるとき保阪と賢治は二人で岩手山に登り、そこで「誓い」を結ぶ。
このときの「誓い」がどういう誓いなのかは文献に残されていないのですがとにかく誓いを結び、終生かわらない友情を確かめ合うのです。
発行当初、短歌や文学の連載を主とした『アザリア』は、次第に社会主義に傾倒するようになっていきます。
「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム」という保阪の文章はいささか刺激が強すぎたらしく、学校当局がこれを見とがめて、保阪に除籍処分を言い渡すんですね。これを聞いた賢治は「自分も学校を辞める!」とえらい剣幕だったらしい(ですが家族の反対にもあって結局卒業した)
その後保阪は母の死をきっかけに文学から離れ、ついに軍人として東京へ。
それでもまだ賢治との文通は続きます。
賢治も保阪に遅れて上京
久しぶりに会えるという期待を込めて、賢治から保阪に手紙を出します。
「暑くっておひどいでせう。私もお目にかゝりたいのですがお訪ね出来ますか。…私は相変わらずのゴソゴソの子供ですから名誉ある軍人には御交際が不面目かも知れませんよ。」 (1921年7月3日)二人は(おそらく)18日に会ったようです…確かな記録は残ってないのですが
とにかくこの日、二人は心に傷を負うことになります。
保阪の日記を読むと、この日の項は
「七月十八日 晴/宮沢賢治/面会来」と書いた字の上から、斜線で消してある。そしてこの日から年末にかけて、日記は空白のまま。
また賢治の方はというと
「私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって…」と別の人へ宛てた手紙に書いてあります。
これを境に賢治と保阪の往復書簡は急にヨソヨソしくなるんですよね…;
二人の間にいったい何がおこったんだろう
中学であんなに仲のよかった二人、別々の人生をあゆむにつれてその価値観にはスキマが生じてしまったのでしょうか・
なんにせよ、寂しい話だ
