副島種臣て、太政官初期の頃から参議として中央で活躍してた、いわば第一世代(西郷・木戸・大久保らと同党。伊藤博文らが第二世代)であるのに、史料とか、逸話が少ないんだ、何故か。(書は、やたら残っているが・・)
でも、無い史料をよくここまでかき集めてくれたよね。特に巻末の逸事はおもしろかった。
お葬式の時、自分の棺桶を力士達に担がせるよう遺言したとか、借金までして関取の化粧まわしを作ったとか・・・ 相撲大好きだったんすねw
クソ真面目な御仁、ていう印象だったけど、あんがいお茶目なとこもあったらしい。
副島種臣に関する私の好きな逸話を挙げるなら、たしか大隈重信の回顧録(『早稲田清話』)だったと思う。
長崎で洋学修行をしてたとき、同藩出身で副島より6歳年下に
石丸虎五郎(安世)という人がいた。
石丸は長崎に滞在する英国人相手に翻訳業で稼いでおり、当時懐はかなり豊かだった。
んで、大隈の言によると “この(石丸)先生は甚だ道楽な奴で、昼はおとなしくしているが、夜になるといつも丸山(長崎の花街・歓楽街)に繰り出して、きれいなおねーちゃんと遊んでいる。” 遊び人であった。
真面目で謹厳な副島さんはおそらく内心、苦苦しい目でこの石丸を見てただろう。しかしあるとき石丸から、「副島さん、いっしょに丸山行きましょう♡」といきなり声をかけられた。強引な石丸は、とうとう嫌がる副島を無理やり花街へと連れて行ってしまった。…とかいう話だったと思う。
逸事のことばっか言って、まともに歴史の勉強してないようだが(実際そうだが)、近代史中にみる副島種臣の位置づけというものを考えてみたりもした。
対:清・韓国・ロシア外交は、陸奥時代に本格的に始まったものと(なんとなく)思っていたが、副島外交がアジア外交の嚆矢だったのだ。(普通に考えたら、そうなんだけど。)というのも、驚きのひとつ。だって、副島時代の外交ってよく歴史書なんかに書かれているのは、
マリア・ルス号事件と台湾割譲問題くらいで、それも詳細な経緯なんて書かれることないし。
ロシアと北方領土問題で激論を戦わせていたことや、対清外交で何度か清国へ赴いたりしている。それから、板垣退助との絡みもあった。これは初耳で、かなり驚いた。民選議員設立建白書って、副島も起草者の一人だったのか(不勉強…)。官を辞してから民権運動なんて関与していないから…これは意外だった。
マリア・ルス号事件の経緯と数回に渡る裁判の内容、国際社会からの評価については、本書の眼目と思われる。つか、開国したてで外交のイロハもまだわからないような弱小国だった日本が、そんな面倒な事件にわざわざ首をつっこんでったのは、おどろきである。副島の親友・江藤新平なんかは、「副島さん、やめときなよ。んなメンドくさい事件、関わらないほうがいいよ。だいたい日本にとってなんのメリットも無いじゃん」などと副島にコメントしていたようだ。まぁ、普通はそう考える。
副島は、外交官であるまえに、道学者なのだ。
国益とか外交上の利害以上に、副島にとって人道に悖る行為が許せなかったのだろう。結果的にこの事件によって、海外からの日本の評価は高まった。
副島の取り巻きの連中でおそらく最もよく登場する人物の一人が、
花房義質(はなぶさよしもと)で、この方、ルックスが自分好みのイケメン(…)でステキ!なんて思ってたが(ミーハーですんません)、調べたら、岡山県出身の人だった。つまり、非常に個人的な話題だけど私と同郷なんだよね。
岡山県というところは、昔から洋学が盛んなところで、イネちゃん(シーボルトの娘で大村益次郎の弟子、日本初の女性医師)もいっとき岡山で医学修行をしていたと思う。箕作一族なんかも岡山出身で、幕末のかなり初期にフランスに留学して帰国後は江藤新平(司法卿)の下で『ナポレオン法典』を翻訳していた。
こうしてみると岡山出身の政府要人は、佐賀のリーダーに師事する傾向が、あるのやら無いのやら(どっちやねん)。