古今東西、好きな学祖を描きました^^ 肌色が多めなのはご愛敬^^ 不敬?そんなもん知りません^^
早稲田大学ー大隈重信身長がでかけりゃ態度もデカい、その上、口もデカい。
「あるんであるんである」という言い回しを好んで使っていたそうだが、これが佐賀弁なのか単に本人独自の言い回しなのかは知らない。日本で初めて野球の始球式を行った人物。投球後ボールは明後日の方向へ飛んでった。このとき機転利かせた学生があえて空振りしてストライクにしてくれた。以降「始球式では空振りしなければならない」という暗黙のルールが定着する。
早稲田ベアは大学のマスコットキャラクター。
明治になって官職に就くが早いか口八丁・手八丁で短期間にして権威を築き上げた金満家。流行に敏感というか世人の求めに応じてその政治的理論を二転・三転させてゆく良い意味でフレキシブルな政治家であるが、まあ言ってみれば調子の良い
ハッタリ屋である。
若いころは伊藤博文や井上馨らと豪遊の限りを尽くし築地にたいへんりっぱな御殿を建てた。いわゆる“
築地梁山泊”である。ここには昼夜問わず政界財界の有力人物が出入りし、酒飲んだり碁を打ったりゴロゴロしたりして日本の政治を適当に動かしていた。居候も非常に多く大隈自身ですら把握できていないほど居た。
蛇蠍のごとく嫌っていた福澤諭吉とは、一晩酒を酌み交わしただけで大親友に。たぶん早稲田大学をつくったのも諭吉の教育論に影響されるところが大きいと思われる(大隈さん単純すぎィ!)
日本大学ー山田顕義(+木戸孝允 ※股間を隠すのは木戸公直筆の「杯の絵」)
身長150cmと小柄で童顔。愛らしい容姿のお陰で長州閥の先輩達から可愛がられ出世してきたラッキーボーイ。特に元勲である木戸孝允からは いたく気に入られ、非常にしばしば買い物やら温泉やらに引っ張りまわされている(山田自身は「
まぁ介護のつもりで…」と同行している)。そのせいで
「山田は木戸の“稚児”なのではないか」とあらぬ噂を立てられた。
ずば抜けて卓越した軍事の才能から付いたあだ名が「小ナポレオン」。戊辰戦争では数々の華々しい戦績をあげ陸軍少将まで上り詰めた。しかしながら、ライバル山縣有朋の
嫌がらせ、及び薩軍・西郷隆盛から受ける
セクハラ行為等による心的ストレスから軍部を脱却。
以降、「現今日本に必要なのは法の整備と若者の教育である」との理念から民法の制定に尽力し、また一方で日本大学や国学院大学など各種教育機関を設立した。この日本大学が将来的に学生数最多を誇る(多いときで9万人)日本一のマンモス校になることなど本人は予想だにしなかったろう。
拓殖大学ー桂太郎(※
元ネタ)
陸軍元帥・山縣有朋の元で軍制を学び、陸軍次官から台湾総督を経て総理大臣になった。が、実際は山縣による「傀儡(かいらい)内閣」であったことは周知の事実である。
「山縣閣下に気に入られたい・愛されたい」という強い想いのもと あらゆる努力を惜しまない健気で
ガーリィwな性格をもつ。一方で、三浦梧楼や曾我祐準など敵対勢力を追い落とすため綿密かつ執拗な政治裏工作を行うなど闇の深い一面もある。
外征と台湾の開拓を推進したい山縣のために「拓殖大学」を創設。アジア開拓など外地に携わる人材育成を目的としていたことから現在でも国際開発の人材育成を主力とした大学である。
晩年は政党政治を行いたがるなど山縣の意思に反する行動をとったため見放されてしまい、ストレスと寂しさと過労で亡くなった。
慶応義塾大学ー福沢諭吉私が知っている限り
最強の狂人。よく「天才とバカは紙一重」というが、福沢諭吉は天才でもバカでもなく、
「発狂してる人」である。いったいどうしてこの人が壱萬円札の人になったのか甚だ不審でならない。
大阪・適塾在籍中は数々のおもしろ発狂エピソードを残した。その武勇伝を挙げると枚挙にいとまがないので詳細は割愛するが、私が好きなのは
- 化学の洋書をもとに市街地でアンモニアを合成し、その強烈凶悪な悪臭からご近所大ヒンシュク
- 夏は基本全裸。塾でも全裸。でも師匠(緒方洪庵)の奥さんに全裸を見られてしまい、ちょっと…ていうか猛反省。年取ってからも思い出して後悔。
- 金がないのでアルバイトに熊を解剖してついでに医学(解剖学)の勉強(クマの肝臓は高級漢方薬になる)→ひとしきり解剖したあとバラバラの遺体を友達とみんなでクマ鍋にして食った。
- 遊郭に行かないくせに「俺はほかのどんな男よりもモテるぜ!!」と自信満々で大豪語
- お酒の失敗談多数(死ぬほど酒好き)
…などである。詳しくは『福翁自伝』を読んでネ!!

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