山田市之允(顕義)の写真
まんなかの一番ちっこいのが市ィです。

どこの中学生(野球部員)が紛れ込んだの?みたいな風采ですが、この写真撮ったときすでに成人していた筈です(たしか
この写真、背を比較して眺めると、市んとこで凹ってなっているのが愛しい。
戊辰戦争のときの軍服が市の身体には大きすぎて、袖から指の第一関節までしか出なかった
とかそんなの可愛すぎる市ィ…んも~かわいいかわいいかわいいv

:おまけ:
一燈銭申合
ヤジ・市(少年組)
久坂玄瑞が発案した一燈銭申合(いっとうせんもうしあわせ)。
吉田松陰先生の著物(「講孟余話」や「幽囚録」など)を写本して売り
その儲けを
「非常之変不意之急」に備えようとするプロジェクトです。
毎月の写本ノルマは60枚、原稿用紙一枚あたり銭五文なので一ヶ月に銭三百文の儲けにしかならない、文字通り「貧者之一燈」ですね;
村塾の塾生ほぼ全員と、松陰先生の兵学門下生もちょこっとでかなりの人数が参加したはずなのですが、この時期は塾生たちは藩の公用やら何やらで多忙を極めていたので結局ノルマを達成して写本を持参した者はほとんどいないという、残念な有様で(^^;
(ちなみにちゃんと規約を履行できたのは馬島甫仙、山田市之允、入江九一のみ。)
久坂が
「是式の事さへ骨惜まぬ人の沢山無之嘆息千万なり」と嘆いていましたが
久坂さん・・・?あんたもノルマ達成できてないでしょうが(^^;
人の非難してる場合ですか。
まぁ一燈銭申合じたいがある種の紳士協定みたいなもので、金儲けよりも寧ろ藩内青年たちの結束力を固めることを目的としていた部分もあったので
結局いつかは有名無実化することになったんでしょう。
一燈銭申合のメンバーは、のちに久坂を首領とする「光明寺党」という軍事組織に発展します。
そして久坂の死後、この光明寺党のメンバーをそっくり継承して奇兵隊が発足した事実をみると、一燈銭申合も重要な歴史イベントであるのがわかるのです。

PR