
『白虎隊』
作詞者未詳 田村虎蔵・作曲
霰のごとく みだれくる 敵の弾丸 ひきうけて
命を塵と 戦いし 三十七の 勇少年
これぞ 会津の落城に その名聞こえし 白虎隊
味方少なく 敵多く 日は暮れはてて 雨暗し
はやる勇気は たわまねど 疲れし身をば いかにせん
倒るる屍(かばね) 流るる血 たのむ矢玉も つきはてぬ
残るはわずかに 十六士
「一たび あとに立ち帰り 主君の最後に あわばや」と
飯盛山に よじのぼり 見れば早くも 城落ちて
焔(ほのお)は 天をこがしたり
「臣子の務は これまでぞ いで いさぎよく死すべし」と
枕ならべて こころよく 刃に伏しし 物語
伝えて今に 美談とす 散りたる花の かんばしさ
(明治38年1月) …これは白虎隊の謡です。(日露戦争の軍歌検索してたらいきなり出てきた。)
私が松陰神社にて白虎隊の演舞を観たときスピーカーから流れていた音曲はこれだったのかも?
「散りたる花の かんばしさ」・・・花も盛りの16、7に主君と祖国に殉じて戦場に散った命を「伝えて今に 美談とす」ることができたのは
明治38年、戊辰戦争が終わってゆうに30年以上もたってからのことですね。これは文部省唱歌…ちょっと驚き
この時期になってやっと中央(政府)つまり官軍と会津若松=賊軍が(表面上)和解したということでしょうか?
しかし、それでも会津の人たちの中央
(長州・薩摩・土佐・肥前)に対する怨嗟がさりげなくチラついているように
私には見えます。
現代になってもいまだに会津若松市民が山口県民(長州人)に冷淡な視線をむけるくらいですから…
■付記■
そういえば、明治38年1月は日露戦争の真っ最中でした。
とすると、この唄は国民の戦意を扇ぐ(「主君と国家のために死ぬ」ことに道徳的に崇高なイメージを持たせる)ために文部省が世の中に発表したものと思われます、てか実際そうなのだろう間違いなく
じゃあこれも日露戦争の軍歌と言えるのかな?…一応はね(時代は遡るけど…

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